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万福寺のあゆみ  
万福寺の歴史と民俗

  万福寺の生活、社会動向

万福寺地区の人口推移
 

江戸時代の万福寺地区は、『新編武蔵風土記稿』に記載されたように、家数わずか十三軒だった。一軒当りの人数を伝える資料がないので、当時の人口の推測はできないが、昭和二十五年以降の変遷は下記のようになる。

 

万福寺地区の炭焼き
 

万福寺地区では鈴木義治氏や才澤精一氏の父親等が炭焼きを行っていた。
十二神社の参道入口付近の山裾に炭焼き釜がつくられ、炭焼き小屋はその近く、現在の万福寺会館と才澤寛一氏のアパートが立つ辺りにあったという。
万福寺地区でつくられた炭は市場へ出荷するよりも自家用の方が多かったそうだが、隣接する古沢地区の方では炭焼きが盛んに行われて、市場への出荷量も相当あった。万福寺では炭を焼く原料のクヌギやコナラ、カシの頃合いな幹や枝を山から切り出すため、毎年十二月になると伐子きりこさんにたのんでいた。
また、自分達でも炭に適した木を切りに山へ入ったという。炭焼きの原料となる樹木は落葉樹なので、毎年の雑木林の手入れはぜひとも必要だった。
春、夏を経て雑木林に雑草がはびこったのを、二〜三日かけて刈り取る「下草刈り」を行い、山積みにされた下草は堆肥として利用した。秋は落葉を掻き集めたり、時にはクヌギ等の木を薪炭用にするため植樹したりもした。
主に樹齢の古い太い樹の枝を炭の材料として使っていたが、若い樹の場合は十五年位たってから枝を切るようにしていた。
また、黒川などで炭焼きを専業にする人達は、炭の原料となるクヌギやコナラなどの薪を買うために、万福寺に来ることもしばしばあった。
焼き上がった炭は、主に八王子方面へ出荷していたという。万福寺地区の炭焼きは江戸時代から始められ、場所によっては昭和六十年頃まで炭焼きを続けていた釜もあった。


万福寺地区の冠婚葬祭
 

万福寺地区では、古くよりこの地に家屋敷を持ち、住み続けている人々が四つの部落(班)に分かれ、各々の婚礼、葬儀等の際に様々な役割を分担し手伝い、協力するという風習がある。
〈結婚式〉結婚式には各々の親戚以外の人でも、同組や隣組に当る人までを招待する。結婚式が終了した後日、隣組の人まで挨拶、御披露目を行う。
〈葬儀について〉故人と同班に属する男性が葬儀の式の段取りを行い、女性が食事全般の準備や弔いに訪れた客の接待を手伝う。但し、故人と異なる班に属していても、親戚であれば手伝う場合もある。香典は班を問わず金額の相違はあるが、通夜と告別式それぞれに納める場合もある。初七日終了時に、隣班の婦人部に依頼して念仏講をあげて貰う。
また、故人に近い親戚が赤飯を用意して、葬儀等の際に手伝ってもらう人々の食事としていた。昔は香典とともに、米二升を布ぎれで作った「お米袋」というものに入れて納めて、食事の材料とした。

 

笹子農道沿いにあった水車
 

笹子農道沿いにあった水車笹子農道は昔から二間幅位の田圃の畦道として通っていた。この笹子農道に沿って水路が通っており、水車があった。この水車で万福寺地区で収穫した米を搗いたり、滑車の回転を利用して糸を巻きとるのに使ったという。
精米された米は自家用の他、馬に載せて八王子の方まで運んで出荷したという。水車は昭和五、六年頃まで実用に供されていた。中島豪一家の屋号が山印の下に新車屋と記された「ヤマ(注1)シンクルマヤ」であるのは、この水車に由来するものである。

注1 現在の屋号は「クルマヤ」。


噴井戸(掘り抜き井戸)について
 

十二神社、参道入口に自噴井戸があり、大正八年の銘がある記念碑が建っている。この自噴井戸を掘ったのは、才澤孝明氏の曽祖父に当る才澤龍之助氏である。
龍之助氏は掘り抜き井戸の名人といわれ、万福寺を含む柿生村はもちろんのこと、遠く生田や菅の方まで井戸掘りに活躍していたという。
才澤氏の家には自噴井戸が二つ残っている。中島朋男氏宅にも三軒共通の地下水脈で掘られた井戸がある。
しかし、水源がひとつなので、一軒で井戸掃除をすると他の二軒は水が濁ってしまい使えなくなったそうだ。

 

消防団について
 

万福寺地区には殊にこの地区だけの消防団とか、分団というものはなかったが、中島朋男氏の父親である武兵衛氏は五力田・古沢・万福寺の各部落の共同体である「五古万(ごこまん)」の消防団の組頭を務めていたことがあった。
朋男氏は当時、武兵衛氏が身に着けていた半纏を見た憶えがあるという。戦後、昭和青年団(戦時中は青年学校といって、軍事訓練を行っていた)というのがあり、五古万では消防団も昭和団、昭和分団と呼ばれていた。
近年は昭和班と名を変えて、現在、万福寺地区でも三人が昭和班に入っている。昭和班の消火器は五力田に保管されている。


米軍機監視の通信柱に使われた大木
 

第二次世界大戦中、昭和十九年頃の話だが、現在の麻生郵便局が建つ辺りに大高木の杉の木があった。ある日陸軍がやって来てその杉の木を切り出し、アンテナ替りにするといって運搬していった。その手際の良さにはさすが軍隊の仕事だと感心したという。杉の木はB29襲来をキャッチする、レーダーを取り付けるアンテナとして現在の百合丘二丁目付近で使用されたらしい。戦後になって、この杉の木は払い下げられ木材として再利用された。

※昭和十九年は米軍のB29による本土空襲が頻発していた時期で、柿生の上麻生にも「柿生防空監視哨」がつくられ、日夜、警戒体制がしかれていた。


万福寺の牛馬
 

大正から昭和にかけて、万福寺地区で牛馬を飼う家は、牛を飼っていた家が八軒、馬の方は三軒ほどだった。
牛馬とも農耕用に供されたが、収穫した野菜や肥料の運搬用としても使われた。牛の多くは朝鮮牛であった。それは国産の牛に比べて価格が安かったためである。人々は、牛馬に車を仕立てて町家へ野菜を運び、帰りには畑の肥料にするための肥を積んできた。現在の農協が建つ所に共同の肥溜めがあった。
また、それ以外に飼っていた牛馬の糞も堆肥として使われた。このほかに馬を利用して旗競馬(はたけいば)と呼ばれた競馬が近隣の人々と行われていた。場所は高石や稲城の大丸にあった馬場や多摩川の河川敷が利用された。
万福寺地区で馬が飼われていたのは昭和三十年代までで、牛の方は昭和四十年代頃まで飼われていた。門前に馬頭観音が祀ってある中島豪一氏宅では、父の代から二頭の馬を飼っていて、豪一氏も幼い頃から馬に乗ったり餌を与えたりと、馬に親しんでいたという。
当時、現在の農協の駐車場あたりにワラ小屋があって、馬の飼葉(かいば)用の乾草やワラを貯蔵していた。昭和六年に勃った満州事変の頃に、中島家で飼っていた馬が軍馬として徴用されたこともあった。


万福寺地区のお稲荷さま〈稲荷信仰について〉
 

稲荷社は五穀をつかさどる倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)を祀った社で、農業をはじめとする各種産業の守護神として、平安時代以降、民間にひろまった。
倉稲魂神の別称である御食津神(ミケツカミ)を三狐神(ミケツカミ)に結びつけて、キツネを稲荷の神の使いとする俗信があり、キツネの好物である油揚げを稲荷社に供えたりする。稲荷信仰の中心である総本社は、京都市伏見区稲荷山にある「伏見稲荷大社」である。
各地で行われている「稲荷講」は、総本社をはじめとして近隣にある稲荷神社を参詣するため、信者たちが組織する講である。
稲荷信仰の歴史を書物にみると、八世紀奈良時代の「風土記」―逸文―中に伊呂具(いろぐ)の秦公はたのきみが都に近い山城の地「伊奈利(いなり)」を祭祀したことが記されている。また十一世紀平安時代の「枕草子」や『今昔物語』には如月きさらぎ初午の稲荷詣が民衆で賑わいを見せた様子が記載されている。
万福寺に於て講のメンバーが二月最初の午の日に、神奈川県秦野市にある白笹稲荷へ参詣に行く風習があるが、この「白笹(しろささ)稲荷」の前身は江戸時代初期には「白篠(しろささ)稲荷」として『新篇相模風土記』にも記され、稲荷信仰が盛んであった明治時代には、東京都大田区羽田の「穴守稲荷」と茨城の「笠間稲荷」と共に関東三代稲荷に並び称され、現在も稲荷信仰の篤い人の間ではその様に呼び慣わされている。

 
 

◆参考文献
「新篇武蔵風土記稿」昭和四十四年/発行 歴史図書社
「川崎市史」昭和四十三年/発行 川崎市
「川崎市史・資料篇」/発行 川崎市
「川崎の町名」平成三年/発行 川崎市
「ふるさとは語る」―柿生・岡上のあゆみ―平成元年/発行 柿生郷土誌刊行会
「歩け歩こう麻生の里」平成元年/発行 川崎市麻生区老人クラブ連合会伝承委員会
「川崎歴史ガイド」一九九一年/発行 財団法人 川崎市文化財団
「かわさき文化財読本」平成三年/発行 財団法人 川崎市文化財団
「屋号と家紋」平成三年/発行 柿生・岡上組合村誕生百年記念誌
「山口の民俗」昭和六十二年/発行 山口台民俗文化財調査団
「文化かわさき」第十四号/発行 川崎市総合文化団体連絡会
「麻の里の歴史をさぐる」シリーズ刊行昭和六十年〜昭和六十二年/廣川英彦著
「川崎研究」第三十号一九九二年/川崎郷土研究会編
「川崎市神社誌」昭和五十九年/編集 神奈川県神社庁川崎支部
「稲城市史」平成三年/発行 稲城市
「勝坂」みずかみかおる 麻生区文化協会
「小田急電鉄・会社要覧」一九九五年度版
「解説日本史年表」一九八九年初版/発行 研文書院
「柿生村と私のあゆみ」昭和五十四年/発行 柿生昭和会 飯塚重信・著
「多摩と麻生の山印集」平成四年九月/川崎市多摩農業協同組合
「津久井街道−登戸・生田・柿生をたずねて−」/水上馨著
「創立百周年記念誌」昭和四十八年/発行 川崎市柿生小学校百年祭実行委員会
「笹合稲荷の縁起」中山清胤(昭和六十二、三年頃/多摩農協主催の有線放送の原稿)
「阿弥陀様と笹合稲荷」中山清胤

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