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万福寺のあゆみ  
万福寺の原風景

  歴史の道をたどる

津久井道
 
万福寺地区を通っていた道のひとつに津久井道がある。
津久井道は三軒茶屋を基点に登戸から西へ、生田、万福寺、柿生、鶴川に向い、さらに鶴見川の上流に沿って、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道であった。
また津久井道は、東海道や中原街道、大山街道のように制度的につくられた道ではなく、人々の生活に根づいて活況を呈した商業路だった。
江戸末期に、津久井・愛甲地方で生産される絹が、この道を経由して江戸へ送られたことから往来が頻繁になり、賑わいをみせた時期もあった。
津久井道は明治時代から大正六年の地図によると現在の世田谷町田線の万福寺と高石の境付近から弘法松を通り上麻生へ抜ける弘法松コースと、それよりも新しく出来た道で、追分の坂を下り十二神社の近くで世田谷町田線を横切り区役所の北側を通りしばらく進んで小田急線の高架をくぐり抜ける万福寺コースがあった。
しかし、万福寺コースの道は地盤が悪かったため人々は弘法松コースの方を利用していた。大正十年にこの地域で陸軍の大演習が行われたが、その際大砲等の重機を運搬出来るようにと、万福寺コースを整備した。
それからは弘法松コースにかわり万福寺コースが本道となった。昭和に入ると小田急線が開通し、本道となった万福寺コースに沿ったかたちで小田急線が通っている。
戦後は自動車と人口の増加により交通量も増えたので、狭くてカーブの多い今までの道に変って、道幅が広い直線コースの道が必要となった。
直線コースとなる世田谷町田線の整備は登戸周辺が昭和二十五年頃、生田周辺が昭和二十七年頃、柿生周辺が昭和三十一年頃と着々と進められ、昭和三十二年に開通した。
開通当時は砂利道のままで砂埃がひどかったが、昭和三十六年に至り舗装道路が完成、ようやく現在の姿となった

禅寺丸柿〈赤い道〉・黒川炭〈黒い道〉・絹〈白い道〉を運んだ津久井道
 

津久井道は沿道の人々の生活、商業活動を支えた商業路で、麻生地区の特産品である禅寺丸柿や黒川炭、絹の原料となる繭などを江戸の町まで運ぶ、重要な役割を果たしてきた。
天保元年(一八三○)江戸幕府が上梓した『新編武蔵風土記稿』(注1)都筑郡の項に禅寺丸柿と黒川炭はそれぞれ次のように記載されている。
禅寺丸柿―「柿 禅寺丸ト称シテ王禅寺村ヨリ出ルモノヲ尤ヨシトス今ハソコニモカギラズオシナベテ此辺ヲ産トス 村民江戸ヘ運ビテ余業トセリ 其ノ実ノ味スグレテ美ナリ・・・・・」。
黒川炭―「産物黒川炭 村民農業ノ暇ニハ毎年九月ヨリ焼始テ三月ヲ限トセリ黒川炭ト唱ヘテ焼コトハ当郡又ハ多磨郡ニモアリ当村(黒川村)其モトナルヘシ・・・・・」。
これ等の記述をみても、当時の市場において禅寺丸柿と黒川炭が商品として流通していた様子を伺うことができる。
禅寺丸柿は江戸市場では慶安の頃、一六四八年から一六五二年にかけて最盛期を迎えたという。運搬は馬の背に六貫目(22.5kg)入り三籠を積み、津久井道を通り江戸まで運んだとのことである。
弘化二年(一八四五)、王禅寺村の「村明細書」には、柿は村の最重要商品で年二百〜二百六十両の現金収入(隔年結果の数字なので平均百五十両位)があったという。
禅寺丸柿は都筑、多摩、橘樹郡から遠く大山付近まで栽培がひろまったが、王禅寺のものが甘味や色などに優れていたようだ。
江戸時代の中頃から生活用に炭を使うようになり、炭の原料であるナラやクヌギなどの雑木林が多い多摩丘陵の黒川、栗木、片平、上麻生、王禅寺、早野等の村でも炭の生産がはじまり、冬の農閑期に炭焼きを行い、津久井道を通り江戸の方へ出荷していた。黒川炭は土ガマで焼く黒炭で、土ガマは共同作業でつくられるものが多かった。
弘化二年(一八四五)、王禅寺村の「村明細書」には炭焼き渡世人が村内に十九人ほど居り、炭焼きは、ひとり一冬平均して薪八百束から七百二十俵の炭を焼き、江戸へ出荷して八両の現金を得る。
・・・毎年炭焼きにより村に百五十二両の現金が入ってくる。・・・
と記載され、当時の製炭業が農民の生活にとって重要なものであったことが解る。津久井道往還(注2)の中で一番隆盛を極めた物産が絹である。
もともと津久井、愛甲地方の絹は、八王子の市場を通り江戸に運ばれていたが、八王子の商人の力が強く直接市場を通らずに運ぶために、文化十年(一八一三)頃から津久井道が使われるようになった。安政六年(一八五九)に横浜港開港によって生糸の輸出が盛んになり、麻生地区でも養蚕を始めるようになり、農家のくらしを支えてきた。
この道筋は文字通り「絹の道(白い道)」と呼ばれた。

注1 現在の東京都、埼玉県、神奈川県横浜・川崎市域を含んだ地域であった武蔵国に関する詳細精確な地誌である。文化七年(一八一○)から文政十一年(一八二八)まで十八年の歳月をかけて制作し天保元年(一八三○)幕府に献上された。

注2「川崎市市民ミュージアム紀要・第六集」(一九九三年川崎市)によると、登戸から津久井に抜ける道は、一般的には「津久井往還」と呼称されている。
また「神奈川県会史・第一巻」(明治十四年神奈川県会)では、「津久井往還・南多摩郡鶴間村ヨリ津久井郡川尻村ヲ経テ同郡中野村ニ至ル」、と記載されている。


笹子農道
 

万福寺地区を通る世田谷町田線の新百合ヶ丘駅入口の交差点から北へ入り、麻生郵便局を過ぎてしばらく行くと、千代ヶ丘行・小田急バスの万福寺停留所があり、さらに進めば千代ヶ丘へと至る。
この道程が「笹子農道(現在の麻生二号線)」である。旧道の道筋は千代ヶ丘七丁目(当時の細山字山ノ田)付近から南下し、三陽団地付近から東側に曲がり、中島朋男氏宅付近を通って、麻生郵便局付近で現在の道路に出て、トヨタ中古車センターの中を通って世田谷町田線に抜けていた。
旧道はカーブや山坂が多く道幅も六尺(約1.8m)と狭く、村民の日常生活や農作業に困難を来す事が多く早期の改修が望まれていた。
昭和二十六年頃から生田地区では、農業振興策の一環として農道の整備が始まっていたが、当地区に於いては昭和三十一年沿道地権者の土地の無償提供により、川崎市農政課によって、世田谷町田線から千代ヶ丘七丁目まで約八九三メートルにわたって、カーブや山坂の少ない幅約四メートルの道に改修された。
これが笹子農道となる。これによって、日常生活や農作業も以前と比べて極めて効率的になっただけでなく、万福寺を縦断する幹線道路の完成によって、万福寺をはじめ、細山、金程地域の利便性も向上し、地域の発展に貢献することとなった。
また昭和三十三年には日本住宅公団の百合ヶ丘団地の造成工事着手、昭和三十五年には百合ヶ丘駅の開設が行われたが、これが契機となって百合ヶ丘周辺は急速に宅地化が進んだ。
万福寺周辺においては昭和三十七年頃に金程富士見会団地、三陽団地が完成、三十九年には千代ヶ丘一〜七丁目の有楽団地が着手するなど、万福寺の後背地の宅地開発は目を見張るものがあった。
このため幅四メートルの笹子農道では世田谷町田線から後背地のアクセス道路としては対応しきれず、川崎市の指導により、沿道地権者の協力を得て昭和四十二年から四十三年にかけて開発事業者が工事費を負担し、拡幅及び舗装工事を施工した。
工事の内容は笹子農道に沿った水路を含めての改修で幅員が最低七メートル、世田谷町田線から千代ヶ丘七丁目まで延長八七七メートルであった。
改修後、昭和四十四年三月、沿道には百合ヶ丘郵便局(現麻生郵便局)が開設され、昭和五十二年には百合ヶ丘駅から万福寺を経由して千代ヶ丘までの小田急バスが開通。
また、昭和四十九年の小田急電鉄多摩線開通に伴う新百合ヶ丘駅の開設により、昭和五十七年には新百合ヶ丘駅から万福寺経由、千代ヶ丘までの小田急バスが開通した。
交通の便が良くなるにつれて沿道の生活の利便性は更に向上し、住宅開発も一層進み人口が増えていった。
その後昭和六十一年十一月には「川崎市道麻生二号線」として道路認定された。

 

細山線
 

現在の麻生警察署前から、千代ヶ丘へ向かう細山線は次のような変遷をたどった。
万福寺地区に隣接する古沢地区では、沢地を開墾して田圃がつくられ、その田圃を縫って作場道(さくばみち)(現在で言う農道)が通り、山林の方には峯道(みねみち)と呼ばれる山道が通っていた。
この作場道のひとつで後田うしろだと言われていた辺りから平尾の方へ向う道があったが、途中から峯道となり平坦部を通って平尾へ抜ける道はなかった。
昭和初期、平尾側の人達から、山を越さずに通り抜ける道をつけてほしいとの要望があり、古沢に関連する周辺地主の人々の協力と平尾側の道路整備の工事負担によって、昭和三年に古沢から平尾へ通り抜けられる道路が整備された。
これが現在の細山線の前身である。平尾二丁目の谷戸通りの交差点脇に、この道路完成を記念する石碑が建っている。
石碑の表側には「御大典記念・道路開鑿碑」の文字が大きく彫られ、左隅に「中村克昌書」と刻銘されている。石碑の裏側には細山を筆頭に、金程、柿生、古沢など各地区の寄附者芳名が刻まれており、「昭和三年三月・稲城村平尾区建之」の文字が彫られている。
現在の細山線の旧道は千代ヶ丘七丁目付近から金程一丁目までの幅員三尺(約0.9m)の道が金程一○三号線、金程一丁目から古沢を経過して万福寺七に至る幅員六尺(約1.8m)の道が古沢五号線として利用されていた。
昭和四十年代に入り、東京都住宅供給公社によって隣接する東京都稲城市平尾に大規模住宅団地の建設が始まった。(戸建の宅地分譲を昭和四十一年度事業、中層の集合住宅(賃貸)が昭和四十三年度事業、集合住宅(分譲)が昭和四十四年度事業として、それぞれ段階的に建設が進められ、第一期入居開始は昭和四十五年八月に行われた。)
この平尾団地造成に伴う人口増加に対応するため、川崎市と協議のうえ、東京都住宅供給公社は昭和四十四年から四十五年にかけて、幅員十一メートル(一部16m)の現在の都市計画道路・細山線の整備を施行した。

 

小沢原古戦場跡と伝承
 

小沢原古戦場(おざわがはらこせんじょう)については、天保元年(一八三○)に上梓された『新編武蔵風土記稿』巻之五十九、橘樹郡之二、稲毛領金程村の項に「旧蹟小沢原古戦場」として次のように記載されている。
「今其所ヲ伝ヘサルトコノ小沢郷ノ内 多摩川辺へ寄タル地ナルヘシ昔ハ田畠モ今ノコトクヒラケサレハモトヨリ広キ原野ナルヘシ小田原記等ノ書ヲ閲スルニ享禄三年ノ夏 上杉修理大夫朝興河越ノ城ニアリテイカニモシテ北条氏綱ヲ退治シ先年江戸ノ城ニアリシ頃 敗北セシ恥辱ヲ雪カント難波田弾正町田蔵人等ヲ始トシテ宗徒ノ兵五百騎ニテ武州府中ヘ出陣ス氏綱聞テ何程ノコトカアラント子息新九郎氏康其頃ハマタ十六歳ナリシヲサシ向ケル乳夫子志水小太郎ヲハシメオトラヌ若者トモ今日ヲ時トカセキテ六月十二日上杉ノ陣ヘ押寄ケリ所ハ武蔵府中玉川ノ端小沢原ト云所ナリ両軍鋒先ヲ交ヘ終日オメキサケンテタタカヒシカ夜ニ入ケレハ上杉散々ニカケマケテ引退ク氏康ハ初陣ニ敵ヲ落シテ物始ヨシト悦ヒカチ鬨ヲアケテ馬ヲ入シト云々 コノ小沢原ヲ向ケ岡ノ小沢原ト記セシモノアリト云説アリ今他ノ戦記ヲ点検スルニ向ケ岡トシルセシモノヲ見ス姑ク疑ヲ存スルノミ」
北条氏と扇谷上杉氏は武蔵国をめぐり戦いを繰り返していた。享禄三年(一五三○)六月、大軍を率いて府中に駒を進めた上杉修理大夫朝興に対して、北条氏綱は子息の新九郎氏康に出陣を命じた。
弱冠十六歳の氏康は乳母子の志水小太郎等と共に六月十二日上杉勢に攻め入り勝利を収めた。氏康のめざましい初陣ぶりを『北条記』では次のように記している。
「氏康 生来一六歳 軍ハ今日ゾ初メナリ器量骨柄父ヲ越エ謀カシコク弓馬ノ業モ達者ナリ腕ノ力筋太ク股の肉ハ厚クシテ肩ヲナラブル人モナキ・・・・・・所ハ武蔵府中玉川ノ端 小沢原トイウ所ヘ押シ寄セ矢ヲ射ントゾ見エシガ大山ノ崩ルゝ如ク抜キツレテ切リカカリ巴ノ字ニ追イマワシテ東西南北ニ打チ破リ馳セチガウ」
戦場となった小沢原は、『風土記稿』、『北条記』ともに「武蔵府中玉川の端」との記述があり、また、『風土記稿』の冒頭で
「小沢郷ノ内 多摩川辺ヘ寄タル地ナルベシ昔ハ田畠モ今ノ如クヒラケザレバモトヨリ広キ原野ナルベシ」
とあって、川崎市多摩区の菅付近、麻生区の細山・金程、そして東京都稲城市の平尾の広い地域らしい。金程一丁目付近に、小沢原古戦場跡と言い伝えられた場所はあったというが、現在では特定できない。
千代ヶ丘には氏康が「勝った勝った」と勝鬨をあげて駆け登ったという「勝坂(かちざか)」、上麻生には軍勢や武器を隠した「隠れ谷かくれやと」等の地名が伝承されている。
万福寺・古沢に於ても、「陣川(じんかわ)」といい、合戦をしのばせる地名があり、寛文九年(一六六九年)の検地帳にも記載されている。他に陣川を冠した、陣川耕地、陣川の堰、陣川谷などの呼び名が伝えられていた。
また、旧津久井道の新百合ヶ丘駅入り口付近は「矢崎(やざき)」といわれ、合戦の際、弓矢が飛んできて刺った所といわれ、「矢先」とも書かれた。前述の北条と上杉の合戦には中島隼人之佐(現、万福寺の旧家中島豪一氏の先祖に当る)が参加して奮戦したと伝えられている。万福寺と金程一丁目の境にある中島家の墓所には、この小沢原の合戦に於ける死者を葬ったのではないか、といわれる塚が数カ所残っている。
中島隼人之佐は戦のあと万福寺に土着して中島豪一家の祖となったが、その位牌には天文二十二年(一五五三)没と記されている。

 


笹合稲荷と笹子姫伝説
 

新百合ヶ丘駅入口の交差点から北へ入り、麻生郵便局を過ぎると左側に「笹子うどん」といううどん屋がある。
このうどん屋のご主人、中島洋一氏の住宅が道を越した向かい側の小高いところにある。
その裏山に祀ってあるのが笹合稲荷である。「笹合」は笹子の訛ったもので、伝承によると後白河法皇の娘、笹子姫のことだという。
正史には後白河法皇に笹子姫なる皇女が居られたとは記述されていないが、笹合稲荷の縁起の中には生々と伝承されている。治承元年(一一七七年)、後白河法皇が連座した平清盛追討の謀議が発覚し、清盛の追及の手は後白河法皇の身辺にも及んだ。
笹子姫は治承二年六月に京都を発って、同年十一月に武蔵国都筑郡古沢の荘に落ちのび、その後万福寺の山、現在の稲荷が建つところに従者と共に、流れ着いたという。
万福寺に落ち着いた笹子姫は我身の無事を後白河法皇に知らせると、法皇も喜び姫の安泰を祈願して、一刀三礼仏(仏像を一刀彫るごとに刀を措いて三拝し、入魂の仏像に仕上げるという彫刻法)の阿弥陀如来を使者に託し姫に送り届けた。
笹子姫は仏像を安置するため高石の権現山に堂宇を築いたが、それが現在の麻生区高石にある法雲寺だといわれている。姫は阿弥陀如来を守り高石の山に庵を結び余生をおくったという。
現在、法雲寺には住職の香渡機外禅尼が廻向した笹子姫の位牌が、ゆかりの阿弥陀如来と共に安置されている。
この法雲寺に伝えられた阿弥陀如来像は藤原時代の作で、川崎市の文化財に指定されている。笹子稲荷の祠の中に安置されているのは「狐の上にのる笹子姫の神像」である。
高石の法雲寺住職の説によれば、笹合稲荷が建つこの場所は方角からいっても法雲寺の裏鬼門に当たり、笹子姫の墓所だったのではないかという。
この稲荷の祭神が女性であるのは、縁結びに霊験あらたかであるかららしい。また、女性神なるが故の細心な気配りが必要で、稲荷のまわりの筍を穫る時や伸びた樹木の枝を払うにも、お祈りしてお断りをしてから事を進めないと、怪我をしたり事故を起こしたりすることがあるという。
境内への落雷によって朽ちた古木の根元には、笹子姫の従者が埋葬されているとの話も残っている。
毎月一日と十五日は鄭重に供養・供物や御祓いを心掛けているとのことである。


小田急電鉄の歩み
 

現在の小田急電鉄株式会社の前身は、大正十二年五月一日、小田原急行鉄道株式会社として創立された。小田急電鉄沿革の概略は次の如くである。
昭和二年四月一日に小田原線(新宿〜小田原間)全線が開通、一部単線で駅数は三十八(平成十四年現在・四十七駅)だった。
同年十月には全線が複線開通となり急行の運転が開始された。昭和四年四月一日に至り江ノ島線(相模大野〜片瀬江ノ島間)が開通した。
全線複線で駅数は十三(平成十四年現在・十七駅)だった。小田急の小田原線が開通した昭和二年、時を同じくして川崎市域を縦断する南武鉄道(現・JR南武線)の登戸〜川崎間が開通、沿線には電機関係の工場が進出して次第に工業地帯が形成されていった。
さらに同年、玉川電気鉄道(現・新玉川線)が渋谷〜玉川間から溝の口まで延伸された。これ等の東京と結ぶ交通網の発達により、川崎北部の沿線地域には都市化の波が押し寄せ、それぞれの地域において沿線開発を促していった。
戦後の昭和二十三年六月一日、新生小田急は小田急電鉄株式会社として発足した。昭和二十五年八月には箱根登山線箱根湯本まで直通運転を開始、昭和三十年十月には国鉄(現・JR)御殿場線へ乗り入れを開始、三十二年七月にはロマンスカーを登場させている。
輸送力増強がはかられるなか、現在の新百合ヶ丘駅のある周辺は線路が大きくカーブしており、電車の安全な運行に支障があったので、線路の改修工事が成された。
その後万福寺地区の最寄り駅である新百合ヶ丘駅が昭和四十九年六月に開設された。
新百合ヶ丘駅を起点とする小田急多摩線は、昭和四十五年五月に着工。全線に渡り踏切のない、道路と立体交差する画期的な工事で、昭和四十九年六月一日に新百合ヶ丘〜小田急永山間が開通、昭和五十年四月に至り小田急多摩センターまで開通、さらに平成二年、唐木田まで延伸された。
昭和五十三年三月三十一日には営団地下鉄千代田線との接続関連工事が完成、同線との相互乗り入れを開始している。
そして、昭和五十九年四月九日には小田急中央林間駅で東急田園都市線と連絡するなど、小田急電鉄の輸送力の増強に相俟って、沿線のそれぞれの地区はさらなる発展を遂げようとしている。


古沢地区のほら穴
 

古沢地区と万福寺地区の境界を通る道で、古沢側に当る山腹に大きなほら穴が二ヶ所ある。これは終戦の前年、昭和十九年に旧日本陸軍が突貫工事で掘ったもので、古沢村の方にも地主の方にも、何の連絡も了解もなく工事が進められたという。
古沢村では武器弾薬を隠して貯蔵するためとか、戦車を隠しておくのだとか様々な噂は流れたが、結局のところ目的は判然としないまま、実際の利用には供されずに終戦を迎えた。
ほら穴は約二〇メートルの間隔でいずれも幅約三メートル、高さ約二・五メートル、奥行きは約四メートルという規模である。
戦後、この土地は、ほら穴を掘って積み上げた残土の山をならし馬鈴薯畑にして、その後は杉の木を植えたという。
現在では杉の木の他、様々な雑木に覆われているが、ほら穴は往時の姿を残している。


空撮で見る万福寺地区周辺の移り変わり
 

古(いにしえ)の万福寺図
 

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