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万福寺のあゆみ  
万福寺の歴史と民俗

  十二神社・由緒と沿革

十二神社の由緒
 

天保元年(一八三○)に上梓された「新編武蔵風土記稿」都筑郡、万福寺村の項に、十二神社は十二所社の名で次のように記載されている。
「十二所社 除地二段 村内医王寺ノ東丘上ニアリ飯縄稲荷ヲ合殿トス覆屋二間ニ二間半ニシテ坤(未申に同じ―南西の方角)ノ方ニ向フ前ニ鳥居ヲ立 村民ノ持ナリ例祭ハ年々九月十二日ナリ」
そして、川崎市神社誌には十二神社に関して次の記載がある。
十二神社 ●御鎮座地 川崎市麻生区万福寺三○四 ●御祭神宇気母智大神 ●例祭日 九月十二日 ●由緒沿革 正徳元年十一月一日の創立にして、嘉永四年九月十二日再建 又、大正五年十月八日社殿改修し、大正十一年八月二十九日供進神社に指定せらる ●神殿 本殿流造、社殿入母屋造 ●境内 六五五坪 ●宮司 池田正盛十二神社の建築様式は、本殿・覆屋切妻造平入、拝殿・入母屋造である。
建立以来、万福寺地区の氏神として長い歴史の中で大切に守られてきた。十二神社の祭神は神社庁の登録に於いては宇気母智命となっており、風土記稿に記載の飯縄稲荷を合殿とするということに合致するが、合殿ということは、別の神様も祀られていたと考えられる。
ともあれ、十二神社の祭神は宇気母智大神(うけもちのおおかみ)として現代に至っている。
宇気母智大神とは食物の神様であり、保食神(うけもちのかみ)とも記され五穀を司どる神とされている。
神代紀では宇迦御魂(うかのみたま)・食物、中でも殊に稲を司る神といわれ、「うかたま」あるいは転訛して「うけのみたま」ともいわれた。
また、十二神社の十二とは十二柱の神々という意味で、十二柱とは天神七代と地神五代からなり、生命の発展、伸長の源になる大神とされ、これ等を祀ってあることに社名の由来があるといわれている。
また一説には、十二柱の祭神は熊野三山の祭神であるといわれ、十二神社は十二所社として熊野三山を勧請、奉斎する起源を有する、熊野十二所神社の別称ではないかともいわれている。
十二神社にまつわる話としては、昔から武将が戦陣へ赴くに際して、神社の境内にある砂を身につけて出陣すれば、めでたく無傷で凱旋できるとの信仰があった。
この信仰は先の第二次世界大戦の時にも地域の出征兵士の間で無事に帰還できるよう引き継がれた。
十二神社は境内に林立する樹々の深い緑に包まれて鎮座し、古来、郷土の氏神様として万福寺の人々に心の拠りどころとして安らぎを与え、崇敬を集めてきた。
十二神社には参道入口から山上の本殿へ至るまで、数多くの石造物がある。石造物の全容と刻銘の詳細は、本誌「万福寺の石造物」の項目にまとめて記述してある。

 

十二神社の沿革と記録
 

■正徳元年(一七一一)十一月一日、十二神社建立。
■嘉永四年(一八五一)九月十二日、十二神社再建。
■明治六年十二月、万福寺村より十二神社を村社とする旨願い出る。
■明治十三年十月三十日、神奈川県より村社の指定を受ける。
■明治四十三年、拝殿改修。
■大正四年十月十四日、「拝殿改築願」提出、同年同月二十二日、神奈川県より許可される。(工期一年間・工費予算額二百三十五円)
■大正五年十月八日、社殿改修工事行われる。同年四月、狛犬奉納。同年九月、灯篭奉納。
■大正八年一月、参道入口にある龍の水場に記念碑建立。同年四月、手洗石建立。同年十月、参道、石段の修理が行われ、門柱奉納。
■大正九年三月四日の十二神社氏子総会「協議録」に、十二神社の社格を指定神社とするため、氏子及び信徒を募る、との議事録がある。
■大正十年五月十日「協議録」に、十二神社に関する明細帳記載「祭神不詳」を「祭神宇気母智大神」に訂正する旨、都筑郡役所に届出る、との議事録があり、その届出は同年同月十六日、神奈川県より受理される。■大正十一年八月二十九日、十二神社は供進神社(注1)に指定される。
■昭和二十一年二月、神社代務者・池田正盛氏並びに、総代・中島周策氏、鈴木新之助氏、鈴木愛保氏により「十二神社規則」が制定される。(十二神社祭祀として、信念祭・二月十二日/新嘗祭・十二月十二日/例祭・十月十二日、と記載)
■昭和四十二年十二月、十二神社拝殿・茅葺屋根を亜鉛葺きに改修。
■昭和四十七年九月十二日、石造りの鳥居を再建。
■平成二年三月、十二神社再興に向けて「十二神社建設委員会」が結成される。同年九月、十二神社例祭が再開、例祭日は九月吉日の土曜日もしくは日曜日とされ現在に至っている。

注1 無格社から指定村社となり、例祭の時には公(おおやけ)《国》から幣白料(へいはくりょう)《神に供物を奉る費申》を下賜される村社。幣白料を奉ることを「供進」(きょうしん)と呼称したので、供進神社という。この習慣は戦後の昭和二十年まで残っていた。

 

十二神社例祭の記録
 

万福寺・十二神社例祭日は記録によれば九月十二日とされているが、中島豪一氏の話によると、十二神社では今から三十年位前には十月に祭礼を行い、その時には他家へ嫁いだ人達の家族も集り、一族郎党が久し振りに一堂に会し、重箱のご馳走と酒で祝ったという。
当時は万福寺地区全体でも十七、八軒しかない時代だったので、「花かけ」と呼んでいた奉納金をそれぞれが出し合って祭りの費用に当てた。
その中で数年間に一度位の割合で田舎芝居や神楽を呼び寄せ、皆で楽しんだという。その頃は地域の子供達が毎週日曜日に集まって、十二神社境内の清掃を行っていた。
平成三年には十二神社が創建から二八○年を迎えるということで、平成二年より祭礼が再開され、平成四年八月二十八日には、氏子を中心にした会員、賛助会員から成る「崇敬会」が設立され、神社再建の気運が高まった。時代の流れを反映して、十二神社の祭礼も素朴な信仰の集りから、近年は神事の他に縁日の屋台、各種催し物が祭礼に盛り込まれるため、近隣の子供達や家族が参加しやすい九月吉日の土曜か日曜日に行われている。
平成七年の例祭は九月九日、土曜日に開催された。
祭礼の各種行事に先立ち、十二神社拝殿において神事が行われるが、その式次第を次に記録する。正午になると十二神社拝殿内に氏子の代表をはじめ、町内会、子供会、商店会の代表者が着座して、他の参加者も拝殿前に集合する。
全員が整列したところで、司会より神事開始が告げられる。池田正盛宮司の御祓いのあと祝詞が奉上され、厳かに神事が進行する。
玉串奉奠は司会により氏名が読上げられ順序に従い行われる。
(一)十二神社御宮総代並びに万福寺町内会会長。(二)十二神社御宮総代。(三)緑ヶ丘自治会会長。(四)新万福寺町内会会長。(五)万福寺子供会会長。(六)新百合ヶ丘商店会会長。(七)十二神社御宮総代。
最後の御宮総代が礼拝する際、拝殿前に参集した全員が和して、二礼、二拍手、一礼をもって同拝する。
最後に拝殿内に着座している人達はかわらけで、境内に参集した人達も、それぞれ御神酒を拝戴して神事を終了する
。縁日の屋台や境内での各種催し物は夕方の四時頃には閉会となり、その後、氏子の人達をはじめとする関係者一同は万福寺会館に場を変えて、「鉢洗い」と称する納会を行う。

 

十二神社拝殿内の奉額について
 

剣道の「武徳」を称える奉額に記された、中島武兵衛先生という剣道指南は中島朋男氏のご尊父である。中島朋男氏は当時はまだ十歳に満たない子供だった。
武兵衛氏が自分の家に剣道の道場をつくることになったいきさつは、都筑郡の中では柿生村が一番剣道が強く、柿生村全域の人達が集って剣道部を結成したことによる。
武兵衛氏は、稲城村坂浜にあった道場に通って剣道の腕を磨いていたので、適任ということで指南役となり、自宅に十畳の板張りの道場をつくり門人に稽古を励行した。
門人の中には子供はいなくて、農業に従事している大人ばかりだったので、稽古の時間は一日の農作業が終った夕方から夜にかけて行った。
また冬場には、十二神社境内で寒稽古を励行した。武兵衛氏は剣道の指南を大正期に始めて、昭和十四、五年頃まで続けたという。
武兵衛氏が用いた剣道の面は表面に銀のカネを敷いた特別製だった。朋男氏宅でも暫くは、武兵衛氏愛用の面をはじめ胴や小手、剣道着を残していたという。
門人の中には高石の方から通ってきた人で三段まで昇進した人もいたということで、当時の熱心な稽古振りが伺える。
【奉額の内容】
「武徳」と毛筆の太文字が堂々たる木製の奉額中央に大書され、右端には「剣道 中島武兵衛先生」と天地一杯に記されて、次に「門人連名入門順」とあり、「鈴木林次郎」を筆頭に門人六十六名が武徳の二文字の下に書き連ねてある。
門人の名前が書かれた左脇に「昭和四年十月十二日奉額」と、この額を十二神社拝殿に奉納した日付があり、続いて「発起人」として十六名の名前が上、下段に分れて記されている。
次にその発起人名を記載順に列挙する。

 

十二神社本殿内の鏡
 

十二神社本殿の内陣には木造の祠が安置されているが、その祠の前に御神鏡が祀られている。
御神鏡を戴く鏡台は見事な彫刻が施された木製で、中島朋男氏宅には、この鏡台と御神鏡を型どった同寸の雛形が保存されている。
雛形は木製で裏側に下記のような銘が墨で記され、本殿内陣にある本物の鏡台と御神鏡の由来を知ることができる。
御神鏡部分/萬福寺鎮守井津納神社 御神鏡形庚申 大正九年十月十二日鏡台部分/奉納 中島新平 鈴木伊三郎彫刻師 橘樹郡生田村細山 宮田金之助御神鏡製造元 東京芝区日蔭町一丁目祭具株式會社
木製雛形の裏側に記された彫刻師・宮田金之助氏は、銘にあるように橘樹郡生田村細山の人で、当時は生田村のみならず、万福寺のある柿生村にも、彫刻の腕前の良さが伝わっていたという。
彫刻の仕事だけではなく、様々な家具も手掛けて、指物師としての腕も買われていた。中島豪一氏宅には宮田金之助氏が製作した長火鉢が今も残っている。


十二神社再建について
 

万福寺地区の郷社である十二神社は、平成三年に神社創建二八○年を迎えるため、平成二年三月に開催された氏子集会で神社の再興が決議され、本殿再建をはじめとする計画を進めるため、十二神社・建設委員会が結成された。
同年六月に開かれた委員会で、再興については他の事例等を調査して、万福寺地区の区画整理事業との整合を図っていくなど今後の方針が決定された。
十一月に近隣神社見学会が持たれ、寒川町の小動神社をはじめ、町田市の熊野神社、成瀬杉山神社の各社を見学、再建に際しては神明造りの神殿建築を検討していく方向が決定された。
平成三年四月の建設委員会において、建替部会、祭事部会、崇敬会部会の各部会担当委員が選出された。
とくに崇敬会設立については、会の正式名称を万福寺十二神社崇敬会とし、会員については地区外も対象として、総代会、氏子会、崇敬会の三組織からなる活動を進めていくこととなった。
十二神社の再建は、今後、万福寺地区で進められていく土地区画整理事業を機として、実現へ向けての準備が着々と進められている。


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